厄払いは神社とお寺のどっちでやればいいの?とその筋の人に聞くと私と考え方が同じだった!
厄払いの季節になったので、神社でしようかお寺にしようか、とどっちつかずで迷う方も多いも知れない。
いろいろ思考を巡らす中で、私は初詣も含めていつも“お寺派”。
その理由はこれから語ってみたいけれど、そういう風に決める前に、一応慎重を期してそういうことに詳しい人、というかそういう物事に子供の頃から経験の多い知り合いがいたので念のために聞いてみたことがある。
そうしたら幸いというか、彼女も私と同じ意見だった。
細かいことを言えばいろいろ別な考え方もあるのだが、はっきり言えば神社でも何ら変わらないだけの厄払いのご利益はあるそうだし、基本的にどちらでも良い。
でも私はお寺と決めているけれど、そのいきさつを含めて、ちょっとドジで申し訳ないけれど経験者としてのアドバイスを語ってみたい。
厄払いはあくまでも“形式”優先!どちらでもOK!
神社もお寺も馴染みの薄い方にとっては、何となくあの大きな屋根の構えといい、賽銭箱といい、どっちも同じに見える。
ちがいはといえばお寺には仏像やお墓、そして神社には鳥居があるくらいだ。
ここで当の彼女に聞いてみると、はっきりいって厄年や厄払い、というのは迷信から出ていることでしかない。
これを彼女の口から聞くのも新鮮だったが、結局社会的な習慣が古くから続いている結果、現在までそういう迷信が固定されているに過ぎないそうだ。
だからはっきりいってしまうと、厄年になったからと行って厄払いの儀式を受ける必要はどこにもないそうだ。
ただ、と彼女は続けるのだが、結局は本人の気持ち、周囲の理解を得させるために、こういう厄払いという形式を受けておいた方が何かと社会の中で生活もしやすくなるし、自分の気持ちもすっきりする、というメリットはある、ということだ。
確かに、気分だけを考えて見ても厄払いをしないよりはした方がすっきりするし、安心できるわけだし、その方が自分の家族も同じ気持ちだろう。
その意味からしても厄払いは確かに意味がある、と言えると彼女は語っていた。
その結果、「本当の」利益ということになると残念ながら神社もお寺も無いと言って良い。
その意味では両者のご利益の「差」は無いということになる。
私がお寺を選ぶわけは、お参りの仕方の難しさから
厄払いについては神社もお寺もどっちつかずのはずだけれど、私がそれでも神社でなくお寺を選んだのは、お正月などの普通胃に参拝する時の手順が難しいためだ。
その手順、慣れれば何ということはないけれど、神社に行くと必ずあるのがあの社の前の鈴、そして赤と白のひも。
私は以前大きな神社にお参りした時、賽銭を上げて手を合わせた後でアノひもを振って鈴を鳴らしたことがあったのだが、それは実は手順として真逆のことをやっていたことに気がついた。
神社にお参りする時には必ず最初に鈴を鳴らして神様に自分が来たことをつげる必要がある。
その後で賽銭を投げ入れて願い事を祈ることになるのだが、全然そういうことを知らないでいたら、横にいたおばちゃんに脇をつつかれてあんた間違ってるよ、といわれてトラウマになってしまった。
何しろ多くの人のいる前で注意されてしまってずいぶん恥ずかしい思いをしたものだ。
だから明くる年にはお寺を選んでお参りに行ったのだが、お参り音痴なのか分からないが、お寺の方では賽銭箱の前で手をぽんぽん叩く、という神社でしかやらないことをやってしまった。
こんなんで厄払いして大丈夫かな?などとも思ったが、個人的には神社よりもお寺の方が何となく落ち着くので、それで厄払いにもお寺にしている。
くどいようだけれど、私のようなドジな女でない限り、どっちでもよいし、その筋の友人も大差ない、といってくれているから大丈夫だと思う。
厄年に関する危険性は本物?
ただ、その友人も語っているのだけれど、厄年とか厄払い自体は確かに迷信でしかないけれど、少なくともそういう厄年が巡った歳やその前後では、体調の変化や悪化、生活の変化なども大きく変わる時期なので、それなりに注意は必要になるという。
あの江原啓之さんもそういうふうに語っているし、と彼女も引き合いに出しているのだが、女の厄年で何が大変かといえばやっぱり30代。
女の30代だけは男でもあり得ない二度の厄年、つまり33歳、37歳と巡ってくる。
これを一口に単に迷信と片付けることもできるかも知れないけれど、一面昔から女の30代というのはそういう体や仕事、生活の面でリスクが増えることが分かっていたからだ、という見方もできる。
確かに、30を越えると女は出産や子育て、そして婦人病などの心配が重なるし、同時に主婦として家庭内ではかなり大切な役割にもなってくる。
昔の人はそういう配慮から、こういう厄年を30代の女性に課したのかも知れない。
だからそういう現実的な意味から考えれば、心配すべき時期に来ているのが今の私たちにちがいないのだ。
厄払いもそういうわけで、現実の生活と持ちつ持たれつの関係と言えるだろうか。
考えていくべき点はそうすべきで、逆にそうでない、つまり迷信と割り切れる部分はそういう見方でよい、というのが彼女の意見。
神社もお寺も昔はごっちゃだったし、と語る彼女本人は、どっちに行っているのか聞いてみると
「ご利益が重なるからどっちも行くのが良いとか言われているけれど、確かにそれはあると思う。私も行ってみたりしていたけれど、でも考えようなのよね。結局あっちもこっちも行ってしまうと、ここの神様や仏様を信用しないという気持ちにもなりやすいし。要は本当に気持ちを向けようとしなきゃね」
だそうだ。
迷信と現実の天秤、そして一番大切なのは気持ち。
そういうことでよいにちがいない。
村松亜耶